ボートはボート

先日彩の国さいたま芸術劇場で観た「コリオレイナス」のパンフレットに渋谷陽一が寄稿していた。talk about 蜷川幸雄の第3回で、各界の気鋭に「蜷川幸雄」を語ってもらうという趣向だ。

わたしはこのblogを読んでいただければおわかりのようにたいへんなロキノン好きであって、まあなにしろそれまで音楽雑誌なんて読んだことがなかった、というような人生だったわけだから、すごく影響を受けていると思うし渋谷陽一のインタビューは面白いなあ、と素直にそう思っているが、しかしこの寄稿はなんというかビミョーだった。もちろん盛大に蜷川幸雄を讃えているのだが、うーん、え?そこなの褒めるとこは・・・?みたいな居心地の悪さがあるんですねい。

かつて蜷川幸雄が「ロミオとジュリエット」で商業演劇に進出した際に、かつての仲間から反発を受けたことや、その姿勢に対して「非常にロック的である」と結論づけているわけなんだけども、すべてにおいてその文法が「ロック」で成り立っているのがねえ。確かに蜷川幸雄の精神は「ロック的」と捉えられる部分があるかもしれないけれど、でもそれでも演劇は演劇、ロックはロックでしょ。村上春樹風に言うなら、ボートはボート、ファックはファックでしょ。

わたしは決して蜷川幸雄の良い観客ではないですが、たとえばけれん味溢れる演出や劇的であること、への異様とも思える執着を、時には素晴らしいと思い時にはよくわかんねえな、と思いこそすれ、それをロック的、だとは逆立ちしても思わないなあ、ということです。

いやーだから渋谷陽一びみょうだよね、ということが書きたいわけではなくて、つまるところ大して興味もない(と、ご本人も文中で言っている)ことについて、まあ渋谷さんの場合は演劇ですが、それを自分のフィールドに持ち出して語ろうとすることは大変危険なのだなあと思った次第。渋谷陽一でさえそうなのである、いわんや素人をや。興味がなければないほど自分が向こうに飛び込まないといけんだろ、っていうことですね。私もよくなにかといえば芝居というフィールドに話を持ち出しがちなので、いやーほんとみっともない話だったなと思った。バレーボールを中継しながら「これは野球でいえば9回裏ツーアウト満塁のピンチですね」と解説するスポーツキャスターのようにだけはなるまい、と固く誓いを立ててはみたが、鳥頭なので3日経ったらそんなこと書いたことすら忘れてるんじゃないかという気もしないでもない。