優しい歌 哀しい歌

ここのところ、先日ituneでDLしたばかりのライブ音源をipodで聴きながら会社の行き帰りの時間を過ごしている。ituneでDL出来る音源は39108のアルバムの曲順通りになっていて、唯一違うのはポジネガマンのところに2/12のアンコールで演奏されたJAMが入っているということだけだ。

優しいJAMだなあ、このライブ音源でこの曲を聴くたびにいつも思う。やさしくて、どこか、かわいらしい、とでも言いたくなるような愛嬌がある。それは、微妙にコードをはずす吉井さんの危なっかしいアコギの音のせいかもしれないし、アコースティックだからこその音の暖かみかもしれないし、これを演っていたときの吉井さんのなんともいえない笑顔を思い出すせいかもしれないし、とにかく、今までこの歌になかった優しさがこのJAMにはあるよなあと思う。

私は、JAMという曲が好きでした。イエローモンキーというバンドの、まぎれもない代表曲であるのは誰しもが認めるところだろうと思うけれども、じゃあイエローモンキーのコアなファンに愛されたかといえば、代表曲であることの宿命のひとつかもしれないが、コアなファンであればあるほどこの曲に対して距離を置く人は多かったように思う。その気持ちはよくわかるし、それは、たくさんの人に知られていない彼らの愛すべきところを深く愛していた人だからこその反応だとも思う。けれど、私はやはりJAMという曲が好きだったし、それは言葉に代えれば「恩」のようなもの、この曲がなければ、私はイエローモンキーとは巡り会っていなかっただろうなあという気持ちがあったからだ。

全曲感想の時にも書いたし、何度か自分のサイトでそういうことを書いたこともあるのだけど、私はこのJAMという曲の「どうしようもなさ」がたまらなく好きだ。この曲が歌っているのは、私たちのどうしようもなさに他ならないし、そしてそのどうしようもなさの中でたったひとつできること、をきらりと書いて終わるこの歌は、長いこと私の心を捉えて離さなかった。それは吉井和哉やイエローモンキーというバンドに熱中することとは別に、いつまでも私の心の最前列に座り続ける曲になるんだろうと思っていたし、その予感は外れていない。

バンドが解散し、ソロになっても、私はいつかJAMという曲を彼は演るだろうとどこかで思っていた。もっと言えば、やって欲しい、とすら思っていた。バンドで最後に演奏した曲だから、という思いよりも、この曲がこのまま埋もれるのはあまりにも惜しい、という感情の方が私の中では勝っていた。もちろん、この曲をひとりではやってほしくなかったという人の気持ちもわかるつもりだし、それは私にとってもそういう曲が存在するからで、ただ、私の場合はそれはJAMではないというだけなのだ。

でも、12月28日の武道館で、久しぶりにJAMを聴いたとき、私はびっくりするほど感情が曲に入っていかなかったのだ。これだったっけ?私の聴きたかった曲は?ひとりだからか?アコースティックだからか?吉井和哉がコードを間違えまくっているからか?よくわからない。だけど、なんでこんなにも引っ張られないんだろう、なによりもまずその事に私は驚いた。

JAMという曲のライブ映像は、実はそれほど多く残されていない。DVDではTRUE MINDとbonus discにspring tourのものが入っているだけだ。あんなに聴いた気がするのに、不思議な感じがする。しかし、映像には残されていないが、SO ALIVEのなかに、パンチドランカーツアーのときのライブ音源は収録されている。そこにあるのは、まるで歌ではなくて叫びなのではないかと思うほどの、切実で、痛々しささえ漂う吉井和哉の声だ。なにかにぶつけるように、叩きつけるように歌われるこの曲の、圧倒的な温度。良い悪いではなく、私がこの曲に求めているのはこういうものなんだろうと思う。

そう、良い悪いではなく。あの日の武道館で、吉井和哉が見せてくれたように、JAMという曲は痛々しいばかりの曲ではなくて、もっと可能性のある、優しさに満ちた曲なのかもしれない。みんなで声を合わせるアンセムになるのかもしれない。この曲には私が想像もしなかった未来があるのかもしれない。なにより、アコースティックギターを抱えながら必死で、ちょっとはにかんで、この曲を歌う吉井和哉が、なんていい顔をしていたことか。少なくとも、SO ALIVEに収録されたJAMを歌っていたときの数倍も、彼は自由で幸せそうな顔をしていたに違いない。

だけど、私はやはり、もう一度あの頃のJAMが聴きたいという思いを捨てられないのだ。そう思うと、私は別に吉井和哉というひとの幸せなんて実はちっとも願っていないんだなということに気付かされて暗澹とするが、それでも、どこかのライブ会場で、フェスティバルで、どこか大勢のオーディエンスの目の前で、この「どうしようもない私たちの愛の歌」が、「君たちと俺たちのロックンロール」が、優しくではなく、切実に哀しく鳴り響くことを、私はきっといつまでも願ってしまうだろう。たとえそれが愛でなくても。