あるいは讃歌

こちらのblogを見て下さっている方の中には意外に思われる方もいるかもしれないけども、私は実は(というほどのものでもない)大の芝居好きでもあって、実はっていうか今でも間違いなくライブに行く回数より映画を見る回数より芝居を見る回数の方が多いのです。芝居を見始めてもうそれこそ20年近くなるんだけれども、中でも私を舞台にはめた張本人である第三舞台という劇団に私は多大な影響を受けているわけで、これはそんな彼らの作品からの引用。

例えば、部屋の片隅に打ち捨てられているひとつの人形があるとしよう。あなたは、その人形と共にある時間を確実に過ごしたはずだ。いや、ひょっとしたら、そんな時間を持つこともなくその人形は、部屋の片隅へと転がったのかもしれない。もはやあなたの意識には、その人形は存在しない。

そんなある昼下がり、一人の友人があなたの家に遊びに来る。ひとしきり遊んだあと、その友人は、部屋の片隅にある人形に目をとめる。そして、その人形が欲しいと、あなたに迫る。

あなたは、その時、その人形に決して感じていなかったいとおしさに気づいて驚く。友人の言葉によって、一瞬前まで決して感じていなかった、人形に対するいとおしさに震える。そのとき、人形は蘇る。いとおしさに溢れて、あなたの目の前に蘇る。

その人形を手放したくないと、友人に告げる。

やがて友人は去り、その瞬間、あなたの人形へのいとおしさは消える。

だが、それを悲しんではならない。あなたが感じたいとおしさは真実なのだ。それは、あなたが生きることで捨ててきた、あなた自身の人生の真実に対応する。僕達は、片隅に転がる人形のように、自分の人生を捨てながら生きていく。何種類の人形を捨ててきたのかも忘れて、その人形とすごした幸福な日々も忘れて、僕達は生きていく。

だがある昼下がり、友人があなたを訪ねる、そして、捨ててきた人生を欲しいと迫る。

その瞬間に感じるいとおしさ。それは真実なのだ。

私は、私はあなたの、そういう友人になりたい。

                       BE HERE NOW /鴻上尚史

私がこの芝居を観たのは、大学1年生の夏だった。

たとえば今は吉井和哉やTHE YELLOW MONEYや彼らの周りのことに対して真摯に愛情を抱き、それが消え去るなんてことは想像だにできなかったとしても、でもその今の自分の感情が永遠に続くだろうという確信は私にはもてない。いつかオフィシャルサイトを見に行かなくなり、ブログ巡りをしなくなり、情報をチェックしなくなり、音楽を聴かなくなり、ライブを観に行かなくなる。そんな日が絶対に来ないとは、私には言えない。だから過去のある時点で、吉井和哉やTHE YELLOW MONEYや彼らの周りのことに対して真摯に愛情を抱いていたひとたちが、今は必ずしもそうではない人生を歩いていたとしても、それはそういうものなんだろうなと思うだけだ。それを「愛がない」などという言葉ではくくりたくない。続いていくことだけが必ずしも愛と呼べるものではないはずだから。

全曲感想を書き続けていることに大して意味などなくて、それは完全に自分の自己満足なわけだけれど、今はもう記憶の片隅にすらTHE YELLOW MONEYのことを留めていない誰かが、なにかのきっかけでこのblogを見て、そしてなにかのきっかけで感想を見て、ああそうだ、そうだったな。昔よく聞いていた、懐かしいな。あのとき、自分は本当に彼らのことが好きだったな、と思ってもらえるきっかけになるのなら、この長ったらしい企画をやってよかったと心の底から思う。たとえページを閉じた一瞬後には、もう彼らのことをすっかり忘れ去っていたとしても、かつて自分が真剣に彼らと彼らの音楽を愛していた、その愛情が一瞬でも蘇る手助けになれるのなら、本当にこんなに嬉しいことはない。

おかえり。

話したいことがたくさんあるんだ。