契機

吉井ちゃんがちょっと前に「ねーねーどこで僕のこと知ったの?おせーておせーて」というどこのデレ男だお前は!と廬山昇龍覇で小宇宙(コスモと読んでね)の彼方に吹っ飛ばしたくなるようなことを聞いてましたが、え?反応が遅い?そうですねもう周回遅れも甚だしいですね、っていうか今更触れなくてもここまで延々blog書いてりゃそんな話のひとつやふたつやっとるわ!というわけであって今更書いても二番煎じ感はどうやってもぬぐい去れない!みたいなね。

 

まあ冗談抜きに「きっかけ」みたいなものはほんとに何度も書いているので改めて書くこともあるまいまい、と思うのですが、何かにハマるときってどうなのかな、みんなスパっと落ちたりするものなのかな? 世の中には自分のアンテナがきちんと確立されているひとというのは確実にいて、自分が好きなものとそうでないものへのジャッジがきちんきちんとできる、そういうのって憧れっすよね。私の場合はというとぜんぜんそんなことはないというか、自分で自分のことを「人を見る目がないこと甚だしき」と思ってますし、自分の第一印象というのは長い経験上、まったく当てにならないということについてすでに悟りの境地でございます。

 

それでだからTHE YELLOW MONKEYについても、すぱっとはまったっていう感じは全然ない。でも、何かにはまるときって往々にしてそうだと思うんですけど、一体何が!?ってぐらいあらゆるベクトルがそっちを指して見えるようになるときありませんか。ファーストコンタクトがあって、そこでは特別なにも思ってないか、思ってたとしても気がついてない。だけど脳内のどこかに引っかかっているんでしょうね。でもって、その引っかかった感覚が、今までと違う扉を片っ端から開けてくんでしょうね。だから今までも存在していたのに見えていなかったものが見えてくるようになる。でも自分では「何が引っかかってるのか」に気がつかない。

 

それで大抵の場合、二度目、二度目が私の決定打になることが多い。何か引っかかってる、これってなんだ、それを確認してみよう→ザバーン。もうあとは大波に揺られる落ち葉のごとくヲタという名の海に繰り出すまで。 THE YELLOW MONKEYにはまったとき、そのファーストコンタクトから決定的に道を踏み外す(外すって言うな)までの間の、「なにもかもがそっちのベクトルを向いているように見える」時間があったことを思い出します。それはたとえばCDを買いにいったときに店内で流れていた曲を、店員さんが「空の青と本当の気持ちです」と教えてくれた瞬間だったり、その頃毎月読んでいた「ダ・ヴィンチ」という雑誌のコラムでJAMの歌詞が取り上げられていて『素敵なものが欲しいけどあんまり売ってないから 好きな歌を歌う』という歌詞はすでに一編の詩だ、と書かれているのを何度も読んでしまったり、当時好きだった男の子の友達が貸してくれたCDだったり、スーパーで流れているSPARKだったり、季刊bridgeの「吉井和哉の10曲」だったりしたんだなあと。

 

でも、それらのベクトルのどんな力よりも私を蟻地獄に突き落とした力、そして今に至るまで走り続ける初速を与えたのはインターネットでした。赤信号、みんなで渡れば、とはよく言うけれど、あれだけの集団で駆け抜けたからこそのあの速度だったのだろうと思う。誰ともわかり合えないことをこの人達とはわかりあえる、という事がどれだけヲタ生活のエネルギーとなるか、それは言葉では言い尽くせません。

 

さて、どんなきっかけで自分を知ったかを再確認したデレ男さんはもうひとつ「でもって僕のどこが好き?おせーておせーて、ただし褒め殺し限定」と次に食らうのはダイヤモンドダストだこの野郎、ちょっと自分がかわいいからって、そんな、そんなのあたし気にしないんだからねっ!(ツンデレを装うの禁止)しかし褒め殺し限定というあたりに若干の開き直りが見えそれも涙を誘いますが、ともあれそれについてはとある作家の言葉をお借りして私の気持ちに代えさせて頂きとう存じます。

「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」-村上龍