眠れぬ夜

さて、いよいよおまけツアーファイナルの静岡公演も明日に迫ってまいりました。

明日に迫ってきたということで、とりあえずこれだけは書いておきたいと思ったことを書いておきます。

ライブのあとだと、それしか書けなくなってるからね、どうせ(笑)

ひどく得手勝手な妄想に縛られているうえ、ひとによっては不快と思われる方もいらっしゃるだろうと思うので畳んでおきます。

おまけツアーファイナル、と私は冒頭に書いたけれど、このTHANK YOU YOSHII KAZUYAツアーの本当の意味でのファイナルは、あの12月28日の武道館だったのだろうと思うし、それは吉井本人がコラムに書いている内容を見ても間違いないように思える。あの日はやはり特別だった。振り返ってもそう思う。

じゃあ、明日の静岡はほんとうにおまけなんだね、と私が思っているかといえば、それも少し違って、もしかしたら明日の公演が、別の意味で「最後」になってしまうんじゃないか、という妄想から、どうしても逃れられないのです。

吉井和哉菊地英昭が同じステージに並んで立つ「最後」に。

これは私の本当に勝手な、なんの根拠もない予想ともいえない妄想であって、笑い飛ばしていただいてこの先は読まずに閉じていただいていいのだけど、ただどうしようもなく、そんな気がしてならない。吉井がしきりにエマと呼ばずに菊地英昭、と呼ぼうとすること(結局エマと呼んでたりもするけれど)、BOWINMANをやめ本当の意味でひとりで立とうとしていること、いままで淡々とサポートに徹しますといった風情だったエマが、このツアーではリミッターを外したかのように自在で闊達なギタープレイを繰り広げていること、そういったいろんなことの端々が、私にそういう思いを抱かせてしまう要因なのかもしれません。

もちろん、それが現実になったとしても、それをマイナスな側面からだけ捉えることが間違いで、エマはもっともっと輝ける場所がきっとあるのだろうし、吉井には新たな素晴らしい出会いのきっかけになるかもしれないし、たとえ一旦はサポートから外れても、またいつか呼ばれることもあるだろうし、未来はまったく絶望的ではないしむしろもっと楽しいことが待っているのかもしれないし。

わかってる。もちろん。

私は以前日記で、吉井の左隣にエマがいない日が来るのかもしれないが、その日を恐れすぎずにいたい、と書いたことがあるのだけど、うん、そう、言葉ではなんとでも言える。恐れすぎないでいたい、と書くのは、私が恐れすぎているからだ。

私は今までも、エマに救われてるなあ、と思うことは多々あったけど、今回のツアーほどそれを強く実感したことはなかった。いつでも絶対的にかっこよく、ライブで、客の前に立ち求めるものを必ず与えてくれるという点で、エマはぜったいに私達を裏切ったことがなかった。言葉少なで、1年に原稿用紙3枚ほどしか喋らない、というエマだが、どんな言葉よりもステージに立つ姿は雄弁だったし、なによりあっちへ行きこっちへ行き、あの時はダメだった、本当はこうだった、わかって欲しい理解して欲しいと連呼する男に、昨年の暮れ、私は正直なところ本当に疲れかけていたのだった。だったらファンなんかやめろ、という話だし、こんな事を言うのは吉井和哉本人にも彼を愛する人にも、そして菊地英昭本人や彼を愛する人に対しても無礼極まりない物言いだと承知はしているが、それでもそう思うことをやめられなかった。

とはいえ、12月28日の武道館で吉井和哉が見せたパフォーマンスは圧倒的で、しかし圧倒的であったからこそ、もう「僕はエマを連れていって、一緒に苦汁をなめてもらおうと思う」というその言葉が、無効になってしまうのかもな、という考えが、頭をよぎってしまったのかもしれない。

そんなことを言いながら、この次のツアーにも、ちゃんとサポートとしてエマの名前があるのかもしれないし、それどころか次のアルバムに参加しているかもしれないわけで、そんなわかりもしない未来のことを考えて、これが二人で並んで立つ最後かも、なんておセンチな気分に浸るのは自己陶酔以外のなにものでもないわけだが、だが、もし最後でも・・・後悔はしないようにしよう。それだけ。

うそ、それだけじゃない。

それだけじゃないけど、バカみたいな泣き言は言うまい。

涙は零さず、熱い夜にしよう。それだけは誓う。