恋は、必ず片恋のままで

吉井ちゃんのおかげで、太宰熱再燃中。ってここ何のブログだ。いいのいいの、便乗便乗! この間のエントリをあげた後にまた人間失格の話をしていて、えっ意外とこだわるな、とも思ったんだけど、「ある種の文学的とかデカダンとか」僕にはもう関係ないのかも、と書いていて、ちょっと笑いました。笑ったっつーか、なんだろう、吉井ちゃん誰かに太宰のイメージがあるとでも言われたのかな?なーんて、邪推邪推。 で、デカダン。太宰って、デカダンのイメージ私にはないなと思いながら、そういえばそんなエッセイ書いてなかったかなあといろいろ検索していたら、ありました。インターネット万歳。太宰治著作権は死後50年が経過してすでに消滅しているので、青空文庫化されているのだよ。エッセイではなくて、エッセイのようではあるけれど、短編小説だった。 その名も「デカダン抗議」。

 

一人の遊蕩の子を描写して在るゆえを以て、その小説を、デカダン小説と呼ぶのは、当るまいと思う。私は何時でも、謂わば、理想小説を書いて来たつもりなのである。 大まじめである。私は一種の理想主義者かも知れない。理想主義者は、悲しい哉、現世に於いてその言動、やや不審、滑稽の感をさえ隣人たちに与えている場合が、多いようである。謂わば、かのドン・キホオテである。

のっけからカウンターパンチ(笑)。小説と言いながら、明らかに自分のこと言ってるでしょこれっていう。でも、それだけじゃ終わらない。

私の理想は、ドン・キホオテのそれに較べて、実に高邁で無い。私は破邪の剣を振って悪者と格闘するよりは、頬の赤い村娘を欺いて一夜寝ることの方を好むのである。理想にも、たくさんの種類があるものである。私はこの好色の理想のために、財を投げ打ち、衣服を投げ打ち、靴を投げ打ち、全くの清貧になってしまった。そうして、私は、この好色の理想を、仮りに名付けて、「ロマンチシズム」と呼んでいる。

うひひひ、と思わず声に出して笑ってしまった。いやーいいよ、太宰先生いい。で、このあと物語は自分が幼い頃にふと見初めた少女への、暴走列車もかくや、といわんばかりの妄想炸裂っぷりにつながっていきます。妄想族バンザーイ(笑)でもって、長い年月を経て、ようやく彼女との再会にこぎつける。この場面がまた、最高なんですよ。

あたしは、よごれているから、と女は、泊ることを断った。私は、勘ちがいした。強い感動を受けたのである。思わず、さらに大いに膝をすすめ、 「何を言うのだ。僕だって昔の僕じゃない。全身、傷だらけだ。あなたも、苦労したろうね。お互いだ。僕だって、よごれているのだ。君は、君の暗い過去のことで負けめを感ずることは、少しもないんだ。」涙声にさえなっていた。(中略)  いまは、すべてに思い当り、年少のその早合点が、いろいろ複雑に悲しく、けれども、私は、これを、けがらわしい思い出であるとは決して思わない。なんにも知らず、ただ一図に、僕もよごれていると、大声で叫んだその夜の私を、いつくしみたい気持さえあるのだ。私は、たしかにかの理想主義者にちがいない。嘲うことのできる者は、嘲うがよい。

うー、やっぱり言葉のリズムがすばらしいな。すばらしいななんて、誰に向かってものを言ってるんだって話なんですけど、いやーでもすごいよほんと。 もうひとつ、青空文庫から「困惑の弁」。できれば、読んでもらいたいなーと思う。太宰嫌いなひとでも、興味なくても、とても短いし、タダだし、時間潰しにでも。読んで、なんだこの男は、卑屈すぎる、と思うかもしれないし、実際私もそう思うけれど、そしてそのポーズが逆にいやったらしい、そうも思うけれど、「デカダン抗議」に書かれた自意識過剰を絵に描いたような男も、ここに書かれた太宰治本人が語る矮小な自画像も、そのどれもが、どこかの誰かのようであり、私のようであり、そして吉井和哉のようであるようにも思えてくる。つまるところそれは、太宰治が決して絵空事ではない、人間のめんどうな自意識というやつを真っ正面から書いているからではないだろうか。 彼は退廃的でデカダンスな人物だったろうか。それはわからない。残された作品や、あるいは彼の生涯から、そう読み取るひともおそらく、たくさんいるだろう。でも例えば、太宰治川端康成にあてた有名な手紙、「芥川賞をぼくにください」と切々と訴える文章や、トカトントンの「拝復」から始まるたった数行の言葉の鮮烈さや、そういうものを思うと、私にとって太宰治という作家は、虚無的でも退廃的でもなく、むしろそういったものに足首をつかまれながら、必死に「何ものでもないかもしれない」おそれと、「何ものかであるはず」という自負との間で闘っていたひとであるんだなあとおもう。

私は、悪名のほうが、むしろ高い作家なのである。さまざまに曲解せられているようである。けれども、それは、やはり私の至らぬせいであろうと思っている。実に、むずかしいものである。私は、いまは、気永にやって行くつもりでいる。私は頭がわるくて、一時にすべてを解決することは、できぬ。手さぐりで、そろそろ這って歩いて行くより他に仕方がない。長生きしたいと思っている。