大きな玉ねぎの下

わたしのパソ子ちゃんが入院している間に武道館が発表になったり武道館が発表になったりで更新したし機械はなしという状態でしたが、そんなこんなのうちにNAKEDまで発売になっており完全にテンパっています。そこに襲いかかる歯痛!もうパニック(知らんがな)

今年の武道館のことは、早々に発表されたツアースケジュールから12月28日が外されている、というところから始まって、いろんな人の胸にさざ波を立てたもんだった。まったく関係のないうちの姉までが「毎日武道館のスケジュールを確認している」とか言い出す始末だ。私はと言えば、それこそいろんなひとに「28日」の話を振られたが、その度に返す答えは決まっていた。「何も考えないようにしているんです」。

何かはやるだろう、ともちろん思っていたが、そのよりどころだったのはいつかのQ&Aの「吉井武道館はやりません」という回答だった。「は」。何もないならそういう書き方はしないだろう。そして何かやるというのなら、私はそこに行かなくてはいけない。

もちろん、バンドのことを考えなかったと言ったら嘘になるが、しかしここまで続く怒涛のリリースラッシュが逆にその可能性を打ち消しているように思えた。だとすれば何があるのだろう。なにかあるのだろうか?時間が経つにつれ「ほんとうに、なにもない」という可能性のことを少しも考えなかったかといえば、これもまた、嘘になる。

ふたをあければ、会員限定ライヴという形で「何か」は行われることになったわけだけれど、もし本当に、吉井和哉が12月28日の武道館で「何もしなかった」としたら、おそらく私はひどく落胆しただろうと思う。そしてそれはなかなか抜けない棘のように自分に突き刺さっていただろう。

うまく言葉にできるか自信はないが、私は吉井さんに「続けて」欲しかった。同じ日に同じ場所でやっていくことの難しさ、を吉井さんがこぼしたこともあったが、それでも、だからこそ、「続けて」欲しかった。他のバンドをたとえに出すのが正しいことなのかどうかわからないが、エレファントカシマシ野音のように、どんなことがあっても絶対にやる、とファンが信じられるものを積み重ねてほしかった。THE YELLOW MONKEYというバンドは私にとってほぼ完璧なバンドではあったが、たったひとつ欠けていることがあるとすれば、それは続いていくことができなかったということにある。もちろん、だからこそあのバンドは美しかったのだとも思うし、ただ続けていたとしてもその手から零れるものはたくさんあっただろう。でも、だからこそ、吉井さんには「続けていく」その先にある景色を見せて欲しいと思っていた。傲慢な言い方であるのは百も承知だけれど、今でもそう思っている。

だから、なぜ「だから」という接続詞なのかわかってもらえると思うけれど、「12月28日の日本武道館をそんなに簡単に手放す訳無いだろ」という言葉のうれしさはたとえがたい。

考えてみればすごいことだ。年の瀬の押し迫った武道館をプロモーターが確保し続けてくれる、すくなくとも興行が打てるだけの動員を維持できる、それは功成り名遂げることを夢見るひとたちの中でも、ほんの一握りのものにゆるされることだ。これがいつまで続くのか、続けることができるのか誰にもわからない。意思はあっても、物理的な要因がそれを妨げることだってあるだろう。年寄りじみた言い方だが、やれるうちはやってくれよ、と素直にそう思うだけだ。

わたしは傲慢なファンだから、吉井さんの幸も不幸も願わない。あなたの幸も不幸もわたしからは遠い。遠い分だけ、誰かと幸せになっても、そうでなくても、どちらであっても現実味はない。私が欲しいのはステージの上だけ。いちばんおいしいところだけ。私はいつだってあなたの、おいしいところだけを、いただいていくつもりです。