肯定と興奮

広島のライブが終わって、新幹線に乗るために拾ったタクシーの中で友人に、「この3時間の『生きてる』感がすごすぎて、現実に帰ってこられない」と私は言ったのだった。

広島でTHE YELLOW MONKEYを見るのは初めてだった。会場自体はユニコーンを見るために一度来たことがあった。アリーナの後方の座席で、1日目はそれでも結構開けた視界で見ることができたのだが、2日目はかなり限定された視界でのライブになった。

でもそれが、しぬほどたのしかったのだ。

ライブ中、球根から空の青のイントロまで、ヴィジョンが隠れて見えなくなるが、そのときの感覚が、遠くにいて、メンバーの表情とかももちろんわからないけど、でも最高に興奮して楽しんでいた過去のライブのいくつかをいちばん甦らせる瞬間でもある。こういう距離感で楽しむTHE YELLOW MONKEY、がわたしの中に基準としてあるのかもしれない。

あの、ステージで何をやってるか実際の所よくわからないのに、天井知らずにブチあがるこの興奮はいったいなんなんだろう。THE YELLOW MONKEYが解散してから、私はどこかでこういう興奮をずっと求めていて、でもそれはやはりどこか違って、何が違うのか、そういうことをつらつら考えてみたこともあったけれど、結局よくわからなかった。そして歳月が流れ、私はだんだんもう「あのときの興奮」の名残を自分の中に探すことが難しくなっていたとおもう。それは自分が過去の事実を美化しているだけなのではないかと思うようになっていたからでもあるし、さらに言えばそれを確認することはもうできないのだろうとどこかで思っていたからでもある。いや、思うようにしていたと言った方がいいのかもしれない。「確認できる日が来る」と信じ続けているのはあまりにも不毛で、逆につらいように私には思えた。

今年の初め、THE YELLOW MONKEY復活の予想と希望がネットを駆け巡った時、私はとにかく、次に来る波がなんであれ、それに全力で乗っかる、ということをかなり早い段階で決めていた。それが自分の求めているものではないのではないかという想像はもちろんした。周囲がどのように思うのかが気になりもした。けれど、ここまであのバンドのことをしがみにしがんできた、こういうブログをやってきた人間として、この波に乗らないのは、すくなくともこの波に斜に構えたような態度を示すのは、違うだろうとおもったのだ。

代々木で15年ぶりに彼らを見て、ほんとに15年の距離が一瞬でゼロになるって思ったし、こういうものが見たかったんだよ、こういうとこが好きだったんだよって何回も何回も何十回も思ったけれど、あの日広島で、遠いステージを見ながら、私は天井知らずにブチあがっていて、そしてこの興奮こそが、何よりも私が飢えに飢えていたものだったのだと気がついたのだった。

THE YELLOW MONKEYを見ているときに感じる、生きていることの肯定と興奮は私にとってはやはり得難いものだったのだなと改めて思う。

帰りの新幹線の中でTHE YELLOW MONKEYのライヴ音源をシャッフルでかけて聴いていた。メカラ7の真珠色、大好きなPearl Light Of Revolution。淋しがりは激しいジョークをほしがるのさ 君は素敵 空の上で始まるオーケストラ…。とつぜん、涙がこぼれて止まらなくなった。THE YELLOW MONKEYがかえってきた、かえってきた、かえってきた…

そんなふうにおセンチの花を満開に咲かせたくなるほどに、心からいいライヴでした。

広島との愛ある癒着が激しい民生せんせいの名曲(この歌詞には「興行」というもののすべてがつまっている!)のフレーズをお借りすれば、「きみんとこに行くまでだんだんすごくなるよ」のまさにいま、途上!これからきっとどんどんすごくなるにちがいない、これから続いていく、ということの代えがたい喜びを、この先いろんな会場で実感できることが、なによりも楽しみです。