吉井和哉の作詞における人称代名詞大研究・その5

イエローモンキーの中期にかけて圧倒的な一人称シェアを誇っていた「僕」はなぜ激減したのか。

アルバム別の考察でも書いたとおり3rdアルバム「Jaguar Hard Pain」から5thアルバム

「FOUR SEASONS」においては、少数の例外を除いてすべて「僕」「君」のコンビで構成されていたわけですが、「SICKS」でそれが減少傾向に入り、ソロに至っては40曲のうち3曲にしか「僕」という一人称が使われていないという顕著な結果が出ています。ソロではその代わりに「俺」という一人称がやや増えてはいますが、それでも全体の3分の1にとどくかどうかといったところです。

一覧表を時系列で眺めると、1stの際のある意味とっちらかった人称代名詞の使用法が、2ndではあえて様々な題材を取り入れるといったように変化しており、そして3rdのJaguar Hard Painで、吉井和哉は自分の中の得意技、とでもいうようなものを見つけた感じがあります。それはある種歌の中で虚構を、それも飛び切りパーソナルな虚構を語ることであり、ひとつひとつの歌詞のなかで彼は一種の物語を創り出していたのではないでしょうか。物語の主人公は往々にして「僕」であり、語りかけられる相手は「君」であるという風に。

ところがある時期から、その歌と作詞家の間にあった壁のようなものがだんだんと薄くなり、「ぼく」という距離感を持たせるその言葉が詞にそぐわなくなっていったのではないかと思います。詞の中で語られる言葉はすなわち吉井和哉の言葉であり、吉井和哉の創り出した「僕」の言葉ではなくなってきたということなのでしょう。

最新作「39108」を始めとするソロの楽曲には、そんな風に自分をさらけ出し、断定し、言い聞かせる歌詞が散見されます。それはTHE YELLOW MONKEY時代のある種デコラティブで、どこか違う世界をのぞき込むような蠱惑的な魅力を持った楽曲とは縁遠いかもしれませんが、だからこそよりストレートに、今まで吉井和哉とその世界を受け入れられなかった人々にもその世界をアピールする事が出来た理由の一端なのかもしれません。