君と同じ夢を見ていた

砂漠の花の 思い出は今も

僕の背中をなでる 生きていく力をくれたよ

 

 

昨年発売されたスピッツ12枚目のオリジナルアルバム「さざなみCD」の最後に収録されている「砂漠の花」。アルバムを買っていつものようにそれをipodへインポートし、会社の帰り道、暗くなった風景を見ながらぼんやりとその曲を聴いていた。聴きながら、その曲について友人の語った言葉を思い出していた。その途端、ぼんやりと聴いていたその曲の歌詞のひとつひとつが、はっきりとした実感をもってせまってきた。

 

 

君と出会えなかったら モノクロの世界の中

迷いもがいてたんだろう 当たり前にとらわれて

 

 

去年の12月、名古屋のライヴハウスElectric Lady Landで行われたフラワーカンパニーズのライヴに、吉井和哉オープニングアクトとして登場した。吉井は自分のアコースティックギターと、サポートに来てくれ鶴谷崇さんのキーボードで都合4曲を演奏した。そのときのことについては、吉井自身が「東京ドームより緊張した」と語っていたけれど、それはお世辞にも「ロックスター吉井和哉」を見せつけるようなステージングではなかった。かれは明らかに緊張し、演奏はグダグダで、たった500人しか入らないその小さなライヴハウスを掌握しているとは言い難かった。もちろん彼は単なるオープニングアクトにすぎないのだから、それはそれでよかったのかもしれない。でも、私はもちろんそれでも楽しいけれど、と私は思った。ここに来ている「吉井和哉」にはまったく興味のない観客の目にこれはどう映っているんだろうか、とそんなことが頭をよぎった。バンドだったらな、と一瞬考えてしまった自分に後ろめたさも感じながら、でももしバンドだったら、たった4曲でも、と私は考え続けていた。

 

この日は本来フラワーカンパニーズランクヘッドの対バンで、吉井のあとにランクヘッドが登場した。歓声に無言の挙手で答えながら登場した彼らの、最初の音が鳴り、光が溢れた瞬間、一斉にフロアがうねりだした。あっ、と私は思った。それはちょっとした衝撃といってもよかった。彼らは鮮烈だった。ただひたすらに、鮮やかで、その鮮やかであるということにすべてをかけて歌い、音を奏でているような感じがした。先ほどまで、バンドで登場する吉井和哉、を頭に思い浮かべていたからだろうか、私はでもそのとき、もしいま、もう一度吉井和哉があのバンドで帰ってきたとしても、彼らがこの鮮烈さを再び得ることはもうないだろう、と瞬間的に思ってしまったのだった。それは若さ、というものなのかもしれないし、バンドマジック、というものなのかもしれないし、もちろんそもそもが、私の単なる妄想にすぎないわけだけれど、でもかつては確実に彼らの元にあり、そして去ってしまったその鮮やかさを、彼らがもう一度身に纏っている姿を、その時の私はどうしても思い浮かべることが出来なかった。

 

もちろん、鮮やかであるということがすべてではなく、その代わりに得るものも確実に存在するのであって、そのランクヘッドのあとに満を持してという空気で登場したフラワーカンパニーズは、その答えを提示してくれているようでもあった。フラワーカンパニーズは一枚も二枚も上手と思える隙のないライヴをやってのけ、私は圧倒的な高揚感に満たされて会場を後にすることが出来た。

 

 

初めて長い夢からはみだす

考えてやるんじゃなくて 自然に任せていける

 

 

先日、Dragon Head Miracle tourの東京二日目を観に来てくれた3人とともに、吉井和哉が映った写真がアップされた。4人が並んだ「今」の写真は久しぶりで、でもどれぐらい久しぶりなのか、それすらも最初はよくわからなかった。4人が立って、並んで、上に大きく空間の取られたその構図は、かつて東京ドームのライブ前に有賀幹夫氏が撮った写真を彷彿とさせた。再結成、という言葉が、いろんなところで飛び交った。再結成、もう一度、もう一度、もう一度会いたいですか?彼らに?答えは決まっている。

 

でも、それは私が好きだった彼らなんだろうか。あのとき、ELLで感じてしまったように、あの鮮やかさをすっかり喪ってしまっていたとしても、私は彼らに会いたいだろうか。それがあたらしいものを何も生み出さない、ただの懐古趣味だとしても会いたいだろうか。吉井はどうだろうか。エマはどうだろうか。アニーはどうだろうか。ヒーセはどうだろうか。いろんなことが頭をめぐる。あんなにバンドのことを口にするのだから、吉井だって、きっと本当はまた4人でやりたいに違いない、と思う。その一方で、あんなにわだかまりなく昔のことを言えるのは、もう彼らにとって、あの時代は「いい思い出」という箱にしまわれて、片づけられているからじゃないか、とも思う。そしてこんな風に、喪ってしまったバンドの面影をいつまでも探すように、かれらを見つめ続けている自分のことを思う。そんなファンを4人はどう思うのだろうか。自分はただ甘い哀しみに酔っているだけじゃないのだろうか。考えなくてもいいことばかりを考える。考えてもどうしようもないことばかりを、ただ考えてしまう。

 

でもどんなに考えても、やっぱり答えはひとつしかないのだった。もう一度、会いたいですか、彼らに。その問いに対する答えは、決まっているのだった。そこに「もし」という言葉はない。そこに付帯条項はつけられない。

もう一度会いたい。

THE YELLOW MONKEYに。

ただそれだけ。

 

 

ずっと遠くまで 道がつづいてる

終わりと思ってた壁も 新しい扉だった

 

 

「砂漠の花」を聴きながら友人の言葉を思い出す。「私にとっての砂漠の花は、THE YELLOW MONKEYだった」。私にとってもそうだ。モノクロの世界を変えてくれた。当たり前でない世界を見せてくれた。いまもその思い出が、私の背中にはある。4人にとってもそうだったろうか。そうだったらいい、と思う。そうであってほしいと思う。でもたとえそうでなくても、わたしにとってTHE YELLOW MONKEYはたったひとつの砂漠の花だった。それはずっと変わらないだろう。

 

 

砂漠の花の思い出を抱いて

一人歩いていける まためぐり合う時まで