田舎の生活/NAI

うつくしい喪失の話をふたつ。以下斜字体の引用部分の著作権はすべてそれぞれの著作者に帰します。

なめらかに澄んだ沢の水を ためらうこともなく流し込み

懐かしく香る午後の風を ぬれた首すじに受けて笑う

野うさぎの走り抜ける様も 笹百合光る花の姿も

夜空にまたたく星の群れも あたり前に僕の目の中に

必ず届くと信じていた幻 言葉にまみれたネガの街は続く

さよなら さよなら 窓の外の君に さよなら言わなきゃ

一番鶏の歌で目覚めて 彼方の山を見てあくびして

頂の白に思いはせる すべり落ちていく心のしずく

根野菜の泥を洗う君と 縁側に遊ぶ僕らの子供と

うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上

あの日のたわごと 銀の箱につめて さよなら さよなら ネガの街は続く

さよなら さよなら いつの日にか君とまた会えたらいいな

草野マサムネ作詞/田舎の生活。 「オーロラになれなった人のために」所収。

 

オーロラになれなかった人のために オーロラになれなかった人のために

読んでいて、思わずため息が出てしまうほど、完璧な詞である。淡々とした同じリズムで刻まれる前半の美しい、美しすぎる描写と、後半に漂うストレートな切なさ。 個人的にまったくすごいと思うのは、この前半のきわめて具体的な「幸福な田舎の生活」の風景を、「幻」「たわごと」という言葉で、それが自身の妄想であることを暗示している点である。つまりこの後半部分で歌われる喪失は、自分の妄想への「さよなら」であるわけだ。具体的に読み解くなら、「あの日のたわごと」「また会えたらいいな」という言葉から、ここで描かれる「田舎の生活」はかつてそれを語り合った恋人(それはたとえば幼なじみのような、幼い恋人なのかもしれない)と思い描いた、空想の、だからこそ完璧に美しい情景であるとも読み取れる。

その恋人とは今は離れ、彼は「言葉にまみれたネガの街」が、東京の街が続いていくさまを、そう、たとえば通勤電車の窓からずっと見ている。その一瞬の、心の中にある、見ることの出来ない、けれど確かにある「喪失」。

それにしても、うれしい、たのしい、かわいい、すき、あいしてる、等々の、誰もが飛びつくポジティブな感情を表す単語を一切使わずに、風景の積み重ねだけで胸の痛くなるような幸福な絵を思い浮かばせているところに、草野マサムネというひとのこだわりと才能を見る思いがする。「笹百合」「一番鶏」「根野菜の泥」といった、およそ一般的に歌詞には登場しなさそうな単語が見事にフックとなっていて、それがこの描写の具体性に大きな役割を果たしている。まったく、声に出して読みたい日本語というか、手で書き写したくなる日本語だ。 さて、この美しい「喪失」の歌を聴いていて思い出す曲がある。

何もないあなたと 何もないわたし 燃えるほど愛し合って 結ばれているのに

キリキリ胸が痛むのはなぜだろう? どこかに消えてしまいそう 今にも

公園でチョコ食べて 木もれ陽浴びて 木枯らしの中を走る 長いコートのあなた

キリキリ胸が痛むのはなぜだろう? どこかに消えてしまいそう 今にも

ええ な な 何もないあなたと な な 何もないわたし

な な 何もない世界で な な ながいくちづけを

二人の背中に描いた同じ形の キレイな色の十字架 ならべて眠った

幸せだけど恐いのはなぜだろう? すべてが消えてしまいそう 今にも

目の前が真っ白に光ってあなたが 線だけになってしまう 夢見て泣いたの

流れる時と涙 あふれる愛と涙 何もないあなたを ずっと抱きしめて

そう な な 何もないあなたと な な 何もないわたし

な な 何もない世界で な な ながいくちづけを

そう な な 何もないあなたと な な 何もないわたし

な な 何もないあなたが な な な な な な な な ない

ない ない ない ない ない ない ない ない ない ない ない ない ない

ない・・・・・・ ない

吉井和哉作詞/NAI。

 

THE YELLOW MONKEY MOTHER OF ALL THE BEST THE YELLOW MONKEY MOTHER OF ALL THE BEST

前述の「田舎の生活」が、「存在しないものに対する、確かにあった喪失」だとするなら、このNAIは「存在しているものに対する、現実にはない喪失」を描いているといえるだろう。 この曲自体、「わたし」とは男性なのか、女性なのか、「わたし」と「あなた」はどのような関係なのか、いくらでも想像の翼を広げる余地のある歌詞だと思うけれど、設定がどうであれ、今確かにある、抱きしめられる距離にいる「愛」、より直裁で、肉体的な「愛」と、だからこそ訪れる喪失の「予感」が、この歌詞では見事に掬い取られている。幸せすぎてこわい、というのは陳腐に過ぎる言い回しではあるが、けれど実際にそれは誰しも身に覚えのある感情でもあり、二人でいる「光」があるからこそ浮かび上がってくるものでもある。

そう思うと、吉井和哉はどんなときも、そういった光と、その裏にあるものを、形を変えて歌い続けてきたと言えるかもしれない。それは彼が、終わりはいつか必ずくる、ということから目をそらさずに歌い続けていることと無関係ではないだろう。 しかし、「なにもないあなたと なにもないわたし」とは、もうそれだけで一本取られました、参りました、と言わざるをえない、それほどのインパクトに満ちている。

 

そしてこのNAIにおいて際だつのは、こうして文字情報として見ると一種異様とも見える「ない」の叫びである。「な な な な な な」「ない ない ない ない」等々の文字の羅列は、表現としても強烈な個性であり、その詞の個性をねじ伏せるだけの力が歌い手にあってこそ成立する曲だとも言える。

 

ふたりとも作詞家として独特の世界、独特の表現を持っているが、なにかを喪うこと、その一瞬を切り取っているこの名曲にも、その独特さはいかんなく発揮されていると言える。田舎の生活のような歌詞を吉井和哉はおそらく書かないし、草野マサムネもNAIのような歌詞は書かないだろう。どこか同じで、けれど違う。なによりも、独特の詞世界と、その自身の描く詞世界を100パーセント表現できる能力を持っているふたりのおかげで、私たちの音楽ライフがより豊かになっていることだけは間違いない。 そう、音楽はやはり聴いてみなくちゃはじまらない。