もうひとつのメカラウロコBOX

私の家には、メカラウロコのDVDBOXがふたつある。

 

私はインターネットによるコミュニケーションが爆発的に拡散するのと時を同じくしてTHE YELLOW MONKEYにはまっていった。96年から97年にかけてのことだ。バンドを深く追いかけるのにともなって、たくさんの「ネット上の知り合い」ができた。1年間113本という破格のツアーが始まると同時にその交流は加速していった。その日のライヴに参加した面々が集まり、朝まで飽くことなく喋り倒すことなどざらだった。そうして知り合った友人の中には、今はもうどこで何をしているのかわからない人もいれば、今でも親しく付き合いを続けている人もいる。

 

彼女とはネットでの知り合いの知り合いを介して初めて出会った。その頃の主なコミュニケーションツールは有名なファンサイトのBBSやチャットでのやりとりだった。私はそういったオンライン上で彼女と親しく「レスを交わした」記憶はない。彼女はチャットルーム上の常連の友人で、私もまたそのチャットの常連だった。あるとき、私がごく初期から親しくしていたネット上の知り合いの自宅に招かれることになり、そこに彼女もくるという。池袋で待ち合わせてから、ふたりで一緒に来て。そういわれて、私は緊張した。ハンドルネームはもちろん知っていたが、あまり言葉を交わしたことのない相手とハジメマシテの挨拶を交わし、ふたりでそこそこの距離を一緒に移動する。人見知りの自分にはなかなか高いハードルに思えた。当日、私はあろうことかその待ち合わせに遅刻した。当時はまだ携帯を持っておらず、相手に連絡も取れない。待ち合わせの場所で最初に私はまったく違う人に声をかけた。これ以上ないほど怪訝な顔をされて「違います。」と冷たく言われた。次に声をかけたのは彼女だった。あたりだった。さっき間違えて、全然違う人に声をかけちゃった。そう言うと、彼女はこれ以上ないほど面白いことを聞いたという顔をして笑った。

 

THE YELLOW MONKEYが盛んに活動していた当時は、しかしそれほど彼女と親密になったわけではなかった。彼女はエマのファンで、今に至るまで、私が思う「エマファン」のイメージは彼女と、当時の友人の何人かに象徴されていると言っていい。彼女らはおそらく、ライヴ中に吉井を見ている時間など10分の1もなかったのじゃないかと思う。私の周りにはなぜかエマのファンが多かった。時折冗談で、私はエマファンに育てられた吉井ファンなんだよ、なんて言ってみたこともある。彼女らに共通していたのは、エマへの感情にひねくれたところが一切ないところだった。あのエマの輝きを、彼女らはほんとうに一心に愛して、あがめていた。そういうところが私はとても好きだった。

 

スプリングツアーの最終日の横浜アリーナのあと、そのころ大阪に住んでいた私は紆余曲折あって彼女の家に泊めてもらうことになった。朝までいろんな話をした。THE YELLOW MONKEYの話はもちろん、ちょうど持っていた第三舞台のDVDを見たりして、そのかっこよさに彼女が興奮して、わたしもうれしくて、舞台の話もたくさんした。明け方に寝て、彼女はそのまま仕事に行き、私は翌日の友人の結婚式に参列するため美容院に行って、また彼女の家に泊めてもらった。キルフェボンのケーキを買って帰って、深夜に仕事から帰ってきた彼女と二人で食べた。

 

私は芝居を見るためにしょっちゅう東京に行っていたので、そのたびに彼女の家に上がり込み、勝手に布団を敷いて勝手に寝ていた。いつでも部屋にあがっていいよ、カギはここにあるからね、と言ってもらえていた。彼女はいつも夜遅くまで働いていた。深夜に帰ってきた彼女とまたいろんな話をした。THE YELLOW MONKEYが休止しても、THE YELLOW MONKEYが解散しても、彼女との付き合いは変わらなかった。あのメカラウロコ15、解散のときの東京ドーム、1度きりのJAM。ふたりで聴いた。私も彼女もごうごうと音がするほど泣き崩れ、しばらくは立ち上がれなかった。帰り際、ちょうど発売になっていたTHE YELLOW MONKEYのLIVE DVD BOXとCLIPSのBOX。迷っている私に彼女が言った。迷ってるなら、買ったほうがいいよ。あの時、背中を押してもらわなかったら、買い逃していたかもしれない。

 

ふたりで、いろんなところに行った。明智光秀の墓参りもした。近江屋洋菓子店にも行った。東大の構内を歩いていて、私がけつまずいて転んだ。指輪物語の映画に私がはまり、ふたりでニュージーランドにロケ地めぐりの旅にも行った。レンタカーを借りて、南島も北島も何百キロもドライヴした。私は免許を持ってないので、運転するのは彼女だけだ。いろんなものを一緒に食べ、笑い、いろんな話をした。ほんとうにいろんな話を。

 

いつ泊まりに行っても彼女は忙しそうで、帰宅はきまって午前様だった。いそがしそうで、だいじょうぶかなあと思うことも何度もあったが、私はあまり深く話を聞かなかった。彼女が自分から話してくれる話は聞いたが、それだけだった。だんだんと、ゆっくり、彼女は心と体のバランスを崩し始めていたのだと思う。08年12月の吉井武道館、その年、初めて大阪城ホールで、年末の「YOSHII JO-HALL」が開催され、吉井はポニョのフジモトのコスプレをし、天国旅行をやった。サポートのギターはエマだった。私は彼女にエマの弾く天国旅行を見て欲しかった。チケットは2枚取って、彼女に1枚渡していた。開演前に、すこし遅れる、と連絡があった。私は武道館の中に先に入り、彼女を待った。ライヴが始まったが、彼女は来なかった。天国旅行までには間に合ってほしい、そう思ったが、とうとうその日、彼女は最後まで武道館に現れなかった。ごめんね、おなかがいたくなってしまって、どうしてもいけなかった、と彼女からのメールがきたのは終演後、しばらくたってからだった。

 

いつでも自分の人生を自分で切り開いていて、その自負もあった彼女は、いろんなことが自分で思うように動けないことに苦しんでいたようだった。彼女がスピッツを熱心に聞くようになったのもその頃で、大阪に一緒にライヴを見に行くことになった。チケットを用意し、荷造りして、新幹線に乗り、ライヴを見る。今まではいともたやすくできていた「ライヴ遠征」ということすら、彼女には途轍もなくハードルの高い作業の連続になってしまっていた。ライヴを見たい、というただその一念で成し遂げることができたが、彼女は私に迷惑をかけた、ととても気にしているようだった。09年8月に仙台で開かれた野外でのロックロックにも参加したが、その時も、彼女は私に終始気を遣っていたのじゃないかと思う。

 

迷惑をかけられたのか?そうかもしれない。でも私が感じていたのはまったく別のことだった。私は、自分が、楽しいことやうれしいことを、一緒にたのしんだり、プレゼンしてみたり、これでもかと相手をもてなすことには長けていても、ほんとうにその人の人生がきついときに、その苦しみや悲しみにふかく寄り添うことができない、そのことにほとほと嫌気がさしていた。それは今に至るまでまったく変わっていない、私の人間としての欠陥だった。楽しい思い出作りには参加できる、でも穴の底にいる人に、一緒に穴におりてそこから抜け出す手立てを考えることが、私にはできない。どうしていいかわからない。どうしてほしいかもわからない。そういう自分がいやだった。

 

遠征から家に帰って、ベッドに横になっていると、彼女から電話があった。ごめんね、迷惑かけて、でも楽しかった…そして、また元気になったら、わたしが元気になったら、いつかわからないけど、そしたらまた、会ってくれる?いつでも会うよ、わたしは言った。言いながら、自分の右目から流れた涙が左目に流れ込んでいるのがわかった。いつでも会うよ、またライヴに行こうよ、THE YELLOW MONKEYがもし帰ってきたら、いつかまた…。そうだね、彼女は言った。そうなるといいね。けれどそれは果たされない約束のように、その時は思えた。

 

09年はTHE YELLOW MONKEYの20周年記念の年で、12月に待望のメカラウロコのDVDBOXが発売された。私は常日頃から、BOXが出るなら、いくら金を積んでもいい、と冗談半分で公言していたので、自分がそれを買うのに迷うことはなかった。ネットで注文するとき、ふと彼女のことを考えた。彼女は、これを買うだろうか?買うかもしれない。でも、そんな心境じゃないかもしれない。実家に帰ったことは知っていた。住所を聞いて、買って送ろうかとも思ったが、何の意味もなくBOXを送られても、戸惑うし困るだけだろう。散々迷った挙句、私はそのBOXをふたつ買った。次に会う機会があったら、「代わりに買っておいたよ」、そう言って、これを渡そうと思った。そう思って、7年が経った。

 

2016年、申年にTHE YELLOW MONKEYが帰ってきた。かつてネットを通じて知り合った人たちが何人も、ふたたび彼らのライヴに足を運んでいたと思う。アリーナツアー初日の代々木の前に、彼女からメールがきた。よかった、生きてる、と私はまずそう思った。いろんなところに遠征するから、会えそうなら、どこかで会おうよ、と返信したが、結局そのあと、連絡はこなかった。秋になり、年末のメカラウロコが発表され、再び彼女からメールがきた。メカラに行きたいと思ってるが、いろいろ大変で、行けるかどうかわからない。でももし私が行くなら会いたい。行くよ、当たるかどうかわからないけど行く。そして私にとって忘れがたい、ある話をメールに書いた。

 

2006年2月、吉井和哉はソロで初めて武道館に立った。エマもサポートで参加していた。2daysの1日目に、アニーとヒーセは客席にいて、それを目撃した人がたくさんいた。私はその話に少なからず動揺した。かつて、4人で立った武道館に、今はそのうちの2人だけがいる。そのことを、アニーとヒーセはどう思ったのだろうか、と私は考えなくてもいいことを考えてしまい、それを一緒に武道館に行った彼女に話した。彼女は、うーんと少し考え、こう言った。「一緒にいることが、支える事じゃないんじゃない?今は、たまたまエマはそばにいるけれども、でも、離れているから支えていないってことにはならないんじゃない?そばにいたって、何もできない時ってあるじゃん。離れる優しさだってあるじゃん。今はただそういう時だってだけかもしれないじゃん。」

 

私は、解散後の4人を思うとき、いつも彼女のこの言葉を心の大事なところにおいていた。離れるやさしさだってある。離れているから支えていないってことにはならない。本当にそうだと思う。そして、本当にそうだったということを、何よりも2016年のTHE YELLOW MONKEYが証明したと思う。

 

武道館においでよ。あなたに渡すものがあるから。あんなに愛したバンドの、いちばんかっこいいところがぎゅうぎゅうにつまった宝石のようなBOXを、あなたに渡すから。

 

昨日、彼女は武道館にやってきた。念のため、なにか万が一のことがあっても大丈夫なように、と前日から東京に来ていたという。私が泊まっているホテルで、彼女と会った。久しぶり、そういってハグして、私も彼女もちょっと泣いた。メカラウロコDVDBOXは無事、7年越しで持つべきひとの手に渡った。話したいことがたくさんあると彼女は言い、そしてその通りいろんなことを喋った。彼女は変わったが、変わっていなかった。私も変わったが、変わっていなかったと思う。一緒にメカラを見る友人と3人で喋りながら、彼女は友人に自分のことを説明しようと、あのね、わたしはそんなにTHE YELLOW MONKEYのコアなファンってわけじゃないんですよ、ただエマのファンってだけで…。聞いた瞬間、私と友人は文字通り爆笑した。コアなファンじゃない、エマのファンなだけ。エマのファンからしかとうてい出てこない台詞だ。すばらしい。そうでなくちゃ。

 

大槻ケンヂさんの言葉を思い出す。「結局わかったのが、ロックバンドの再結成というのは、ほんとにたくさんの、無数無限の再会をいたるところで派生させるための、音楽による、大いなるきっかけという本質があるんだなと思ったわけですね」。私が今回経験したこともまた、その無数無限の再会のうちのひとつなんだろうと思う。歳月を重ねていくということはこういうことなんだろうと思う。同じものをずっと好きでいるということは、こういうことなんだろうと思う。別れもあり、出会いもあり、悲しみもあり、喜びもある。THE YELLOW MONKEYは出会いと別れをくれて、そしてまた出会いをくれたのだ。

 

私の家にはメカラウロコのDVDBOXがふたつある。いや、あった。 もうひとつは、私と忘れがたい時間と言葉を共有してくれた友人のところに、今はある。