お誕生日おめでとう

愛は、絶対性の中にしか芽生えない。好きな女の子がいたとしたら、その子が、たとえば見かけがどうだとか服の音楽の趣味がいいとか悪いとかどんな学校を出ているとか職種が収入がどうだとか他人が褒めようが貶そうが、そんなことに耳を貸しちゃいけない。だから愛は信仰と近接するけど、愛に飛び込むのを恐れちゃいけない。たとえみんなが笑おうが、気にするな。恋人だけじゃなくて、それは自分の好きな音楽だってそうだし、服だって、親だって、自分だって、そうやって愛すんだよ。

                                  -Rootsy!

 

吉井和哉さん、40才のお誕生日おめでとう。

 

今日は出張先から帰宅してから、家を掃除して荷物を片づけて、昨日録画した「僕らの音楽」を見て、富山まではるばる持っていきそしてまた持って帰ってきたプレミアム盤のDVDを大きな画面で堪能し、夕食を買いに外に出たら夕焼けがあんまりキレイなので、海岸沿いの道を自転車で海を見ながら走ったりした。iPodから流れてくるBEAUTIFULがずっぱまりで、泣けた。

 

私は自分で音楽というものの良し悪し(という区別があるとするなら)を見分ける耳も目もないよなあという思いがずっとあって、だからどんな楽曲でも皆が「いい曲だね」というとそうかいい曲なのか、と思ってしまうし「ありゃダメだ」といわれるとそうかダメなのか、と思ってしまいがちなある意味最悪なリスナーだ。でもそんな私にも、本当にその曲を「いい」と思う瞬間というのが訪れる時がある。「天国旅行」は長崎のライブで聴いたとき、本当になんてすごい曲なんだ、と雷に打たれた気がしたし、当初から名曲として名高かった「花吹雪」は、リリース後何年も経ってから、なんの前触れもなく「うわあこれはすごい曲だ!」と突然に得心してしまったのだった。BEAUTIFULを皆がいい曲だ、といっても「そうなんだろうなあ」というぐらいにしか受け止められなかったところがあるのだけど、今日の夕焼けと、海から昇る満月を見ながら聴いたBEAUTIFULは本当によかった。この曲に本当の意味で、初めて触れることが出来た気がした。

 

吉井和哉」のメディアラッシュが続いていて、正直この2、3年のモードと真逆な、溢れくる情報の洪水にのまれまくってしまって何がなにやら消化しきれていないわけだが、なにやら勢いに駆られているらしいということだけはよくわかる。とはいえ、あんまり急がなくてもいいよ、というバカな親戚のおばさんのような心持ちと、七夕に決断したという「あること」が何なのかが気になっていたりもするわけだけれども。

 

私も昔は自分の美意識に自信がないからこそ、人がどう思っているか、という「答合わせ」をしがちなところがあったけれども、今でも自信はないがさすがに答合わせはもういいや、という心境にはなってきた。人がどう思うが関係ないし、というか吉井がどう思おうがそれすら関係ないんだなあっていう。吉井の意図なんて私にはぜったいに読むことが出来ないし、やっぱり私は私の文法でしか吉井和哉を見ることが出来ないわけですよ。その見方が吉井の意図するものと外れたところでそれはもうしょうがないわけで。

 

私の願いはね、ただもうずっと圧倒的に遠い人でいてくれ、ということだけです。ステージと客席の間に、100万光年の距離を感じさせて欲しいということだけ。もしかしたら3年後とかにBELIEVEのことを「すげえ名曲だ!」と突然に悟っているかもしれない徹底的にだめなファンだけど、少なくともその点に関しては、私の愛は絶対性の中に存在していることだけは断言できる。

 

でもって、吉井さんが誕生日を祝われるのが大嫌いだと知りつつも、お祝いのメッセージを送ります。

愛はいつだって身勝手なものだからね。

 

お誕生日おめでとう。素晴らしい40代が迎えられますように。愛をこめて。