1997.7.26

吉井さんの自伝で「1997年のフジロックの挫折感で解散したようなものだ」という趣旨の一文があり、もちろんそれだけではないけれどという注釈もつけられてはいたわけだが、ああでも、吉井さんがもうその話をするのなら、私もあのときのことを書いておきたいな、とそう思ったのだった。しかし私は実際、この1997年7月26日の富士天神山スキー場に、第1回フジロックフェスティバルに、足を運んではいないのだ。行ってはいない人間に、何を書くことがあるだろう、いや、はたして書いていいものなのか?そう何度も思ったのだけど、というか、今でも思っているし、行っていないからこそ私は今でもそのことを忘れられないのじゃないかとすら思うのだけど、でも私はフジロックを体験してはいないけど、その余波というようなものを体験したとはいえると思う。

 

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これは、その翌月ロッキンオンJAPANに掲載された、ステージ前の写真である。

 

前日から近づいていた台風による雨、豪雨といってもいい雨とそれに伴う気温の低下。そして大量の人間の移動に関するハード面での脆さ。第1回フジロックには様々な問題があった。それはその台風直撃という最悪な状況下で露呈し、多くの人が「生命の危険を感じた」とあとで述べるほどだった。当時の状況、その要因については、この方のエントリに簡潔に書かれていると思うのでぜひ参考にしていただければと思う。

 

THE YELLOW MONKEYはヘッドライナーであるRed Hot Chili Peppersの前、Rage Against the Machineのあとという、ものすごいタイムテーブルでの出演となったが、当日のメインステージは、そのレイジの開演時点ですでに1時間の遅れ、18時開演予定だったイエローモンキーが始まったのは19時近くになった。

 

当日のセットリストは以下の通り。

01.SUCK OF LIFE

02.A HENな飴玉

03.See-Saw Girl

04.TVのシンガー

05.紫の空

06.RED LIGHT

07.天国旅行

08.BURN

09.LOVE LOVE SHOW

10.悲しきASIAN BOY

 

自伝での吉井さんの書きぶりでは、BURNはまるでやらなかったかのようだが、実際には演奏している(JAPANの記事の中にも、BURNに言及した部分がある)。麗奈をやった、という噂を当時耳にしたような気がするのだが、その情報を確認することはできなかった。

 

この年のフジロックのメインはRed Hot Chili Peppersだった。アンソニー・キーディスが腕を骨折し、カナダのツアーをキャンセルしたにもかかわらず、フジには出演。そして、これが最後の来日、最後のステージになるのではないかとの噂が公然と囁かれていた。時間は押している。雨はひどくなる。時間が経てば経つほど気温は一気に低下していく。観客の多くが寒さと雨に体力を奪われ、雨風をしのげそうなわずかばかりの場所にたくさんの人が茫然と座り込む。そんな中、気力だけで最後のレッチリを見ようとその場に踏みとどまったひとも多くいただろう。

 

このセットリストが問題だったのか?そうかもしれない。特に紫の空からRED LIGHT、天国旅行に至る流れは、寒さでいつ倒れるかわからない、という状況の中で聴くには「早く終われとだけ思っていた」という観客が多くいたとしても、それを責めることはできない気がする。

 

イエローモンキーの開演と同時に、客が一斉に前方へ押し寄せ将棋倒しが起き、一時中断。その後、彼らは予定の曲数を終了し、メインステージはトリのレッチリを残すのみとなった。しかし、そのレッチリが40分弱の演奏のみで突然中断される。その後、観客に対し「続行不可能」のためとしてSMASHの日高社長が終了を宣言した。

 

その後のシャトルバスでの混乱(地獄絵図)、路上駐車による渋滞。バスがなくなり、行くあてのなくなったひとたちは夜中の山道を麓まで歩き、地元の学校の体育館に誘導された。しかしそれでも「まだマシ」といった状況が、その第1回フジロック参加者を襲ったのだった。

 

私はとうぜん、そんなことはつゆ知らず、台風なのに大丈夫なのかなあとのんきなことを思いながら、翌日いつも行っているファンサイトのBBSを覗いた。そこで2日目の中止という事態を知った。慌ててSMASHのHPに行ったが、その時点ではまだBBSは混乱していなかった。そのBBSに書き込みが集中しだしたのは、その参加者たちが帰宅する夜半過ぎからだった。

 

叩かれる。批判されることをこういう言い回しで表現するが、私はその時はじめて、ネットで「叩かれる」ということはどういうことなのかを知った。もちろん、フェスをオーガナイズしたSMASHが最大の矢面ではあったが、その日出演したどのアーテイストよりも、圧倒的にイエローモンキーとイエローモンキーのファンは叩かれたのだった。なんであんな奴らを呼んだのか、という根本的な批判から、イエローモンキーが余計に演奏したからレッチリが怒って帰ったのだというもの、いややつらのせいで時間が押し、だからレッチリが最後まで演奏できなかったのだというものなど、様々だった。実際には突風でステージの屋根がぐらつき、「危険」と判断されたことが中止の原因だったが、それがわかったのは随分あとになってからだ。「彼らのせいで」、死者が出たというまことしやかな噂まで流れた。その噂は一両日のうちにSMASH側からの発表によって否定されたが、「そうなってもおかしくない」と思える状況がその噂に拍車をかけたのは間違いないと思う。そしてもちろん、「ないことないこと」だけではなくて、真っ当な批判も数多くあった。自分がいかに彼らのライブを「楽しめなかったか」を冷静に説明してくれるひともいた。中でも印象に残っている発言のひとつは「自分達がこうして寒さに震えているのに、彼らは今の今まで暖かい楽屋にいたのだろう、その温度差を感じずにはいられないセットリストだった」というものだ。JAPANの誌上でさえも、編集長の山崎洋一郎氏はこう書いている。「彼らはこの日のステージで何を提示すべきかを見誤ってしまった。あの場でもっとも必要とされていた、裸でむき出しのロックンロールを、メンバーとファンだけが共有するストーリーと自意識で着飾らせてしまった」。

 

それでもまだ、アーティストへの批判はそれなりに品性があった、と言えるかもしれない。しかし同じぐらい、いやもっとか、「ミーハーファン」「場所取り迷惑」「スタンディングのなんたるかもしらないマナー知らず」と罵られたファンへの批判は、まったく歯に衣着せぬものだったと思う。実際にどうだったのか、それはもう今となってはわからない。だが、そのチケット代で「最前列を買った気になっていた」ファンがいたこと、前方の背の高い男性に向かって「イエローモンキーが終わったら帰るから場所を代わって下さい」とのたまったひとがいたこと、押さないでーーーーと言いながら、誰にも押されてないのに、そうやって前に前に割り込もうとしたファンがいたこと、そういった諸々は哀しいけど事実だったのだろうと思う。なぜそう思うか?そういうひとがいたとしてもおかしくない、ただそう思うだけだ。そしてもし、私があの時、あの場にいたとして、そういったことを絶対にやらなかったと言えるか?と問われたら、私は自信をもって答えることが出来ないからだ。

 

吉井さんは「フェス失敗劇のはじまり」と書いた。つまりそれはこの1回きりではなかったということなのだろう。2000年、第1回ロックインジャパンフェス。

 

私は、このときひたちなかまで出かけていった。だが、3年前のフジロックの記憶は生々しく残っていた。私も、私の友人も、決して前方へ突っ込もうとはしなかった。それは到底できなかった。この時の映像は、それこそ一時期YOUTUBEでも流れていたので、目にしたひとも多いかと思う。雨の中のバラ色とパール。だが、民生、スピッツとの流れの中で、イエローモンキーが「ジュディ」でその幕をあけたとき、私は「またか」と思ったのだった。どうして、あのとき、あんなに言われたのに。アルバム「8」が出てから、まだ10日ほどしか経っていなかった。ヒットチューンは1曲もやらず、すべてが「8」の中から演奏されたのだった。しかしあの時は、逆にあの雨に助けられたような気もする。あの雨が、なんの工夫もなかったあのセットリストに、バンドにドラマを与えてくれた。

 

結局、またもや彼らのアクトのあと、強風でステージの屋根が飛ばされるという事態が目の前で起きて、そこでこのフェスは中止となった。イエローモンキーはトリではなく、そのあとにAJICO中村一義のステージが控えていた。中村一義は、そのときまで、一切のライブ活動をしないアーティストだった。どれだけCDのセールスをあげても、かれはライブをしない、するつもりはないと言っていた。それをロッキンオンが口説き落とし、だからこその第1回RIJFのトリとして、彼にオファーしたのだろう。中止を伝えたとき、中村一義は地の底まで落ち込むスタッフに気を使って「やったー、なーんてね」と優しい冗談を言ったらしい。

 

だがこの時も、まったく同じように「イエローモンキーのファン」は叩かれ続けたのだった。確かに、わたしも、あの雨の中キャミとヒールで来ていた女性を見たし、最前列に荷物を置いたりシートを広げたりしているひとたちを、モニタでちらっと見たりもした。そして、イエローモンキーが終わるやいなや、そのひとたちがきれいに消え去ったということも、伝聞で耳にした。イエローモンキーを中止にしなかったのは、そうでもしないと奴らのファンが暴動でも起こしかねないからだとも言われた。もちろんそれはまったく的はずれな攻撃だが(その前のスピッツまで雨は持ちこたえていたのだから)、そこまで言われるなにがわたしたちにあるのだろう、と考えずにはいられなかった。

 

私は今でも、フェスという場所、そこでのアクト、ファンのマナー、そういうものが、異常にといっていいほど気になってしまう。吉井さんが好きな曲をやればいい、いつもはそう思うけれど、でもフェスでは、どうか「皆をよろこばせる」アクトをしてくれないものか、と切実に思ってしまう。吉井さんの出番の前に演奏しているアーティストを目の前にしながら、携帯をいじっているファンを見るとぞっとする。ELLに前座で出たときに「俺だけ見て帰らないでね」とわざわざ言われてしまうことに暗い気持ちになる。06年の夏フェス一発目のセットストックで、まだ発表にすらなっていない新曲6曲+LOVE LOVE SHOWというセットリストを聴いたときは、どうして、どうしてなんだと問いつめたい気持ちにすらなった。でもだからこそ、あのRIJF06での、奇跡の逆転劇とも呼べる鮮やかな、圧倒的なアクトが嬉しかったし、とうとう長年のトラウマも解放される時が来たのかと思ったことを思い出す。

 

今年の夏、吉井さんはまた夏のフェスに出るだろう。今でこそ、夏になれば多くのフェスが開催され、多くの人がそれに参加する。すでにこの夏フェスバブルは、夏の風物詩として定着してきた感すらある。だが、FRFも、RIJFも、その第1回終了直後には二度目があるとは到底思えない、といった状況だったのだった。現在、どんなフェスでもステージ前は一カ所に圧がかからないよう工夫され、RIJFでは「ラブ、ピース、フリー。ルールはそれだけです」と言いながら死ぬほどルールが繰り返され、移動手段、交通手段は格段に充実し、そして何よりも参加者の意識が向上した。アクトごとのあの鮮やかな観客の入れ替わりを6年ぶりのひたちなかで見たとき、私は感動すらしたのだった。今年の夏、はじめてフェスに行く、そういうひともいるだろう。私がえらそうになにをアドバイスすることも出来た立場ではないが、ただこれだけ、どうか事前の準備を怠らずに、ひとの迷惑にならぬように。そしてなによりも、そのチケット代で「最前列を買った気に」だけはならないようにと願う。

 

もうひとつ、私が10年前に学んだ大きなことは、ひとはインターネット上の、見も知らぬ人の言葉で、こんなにも傷つくことが出来るんだ、ということだ。傷つけられることではなく、傷つけるかもしれないことへの恐れ。そして、自分が誰を傷つけたのかを、一生知らないままでいてしまうことの恐れ。私はあのとき、その恐れを学んだと思う。誰もが、気軽に文章を書く。匿名掲示板で、blogで。そこでは本音を書いていい、ということになっている。それはそうかもしれない。ひとに気を使って書くなんてばかばかしい。そうかもしれない。でも本当にそうだろうか。ひとに気を使うって、そんなにばかばかしいことだろうか。それすらも踏み越えるべき本音って、一体どれだけの価値のあるものなんだろうか。

 

吉井さんにとっての「フェス・トラウマ」はもう解消されたのだろうか。私はいまだに、フジロックに足を運んだことはない。その単語を聞くと、ほんの少し身構えてしまう自分がいる。レッチリはその後も2度、フジに出演した。中村一義はいまではバンド「100s」として、ライブを行い、夏冬さまざまなフェスに出ている。吉井さんは「あの時の挫折感で解散したようなもの」と言った。吉井さんが「№1 Rock’n Roll Band」の言葉を口にしたのは、おそらくこの1997年7月26日が最後だ。それを思うと、その傷跡の深さを、思わないではいられないのだけど。